ひさしぶり。
玄関先でそう笑いかけられたとき、あなたが誰であるのかわかりませんでした。
にこやかなあなたの顔は、わたしよりも頭二つ分ほど高い位置にあって、片方の目が前髪で隠れていました。どこかから蝉の鳴き声が聞こえていました。それは、あなたが羽織っていたウールジャケットには不釣り合いであるように、わたしの耳に届きました。
どちらさまでしょうか。
そう言いかけたとき、あなたの首元――シャツの襟の隙間から、かすかに覗く金色の鎖が目に入りました。
思い出します。それがまるで自分の象徴であるかのようにいつも身に着けていた、夜を溶かしたような深い色合いのジャケットを。やわく微笑んだときに現れる、右頬のえくぼを。すこし俯いただけで目元を隠してしまう、長い前髪を。慈しむように時計に触れていた、繊細な指先を。首にさげられた金色の鎖と、その先に存在するきらめきを。
思い出します。それが、あなただったということを。
わたしはすこし躊躇いがちに、あなたの名前を呼びました。するとあなたは頷いて、ひさしぶり、と再び言いました。
「忘れられてしまったかと思ったよ」
冗談めかした調子は、言葉の持つ意味とは反対に、わたしがあなたのことを忘れるはずがないという確信の表れのように聞こえました。その確信は実際、半分は間違っていて、もう半分は正しかったのだと思います。
「その服装、暑くはないのですか」
「うん、暑くはない」
「夏ですよ」
「夏か」
あなたは眩しいものを見たときのように、目を細めました。まるで、たったいま気がついた季節の空気を懐かしんでいるかのようでした。
「それできみは、夏服なんだね」
その言葉を合図にしたというのではなかったのでしょうけれど、そのときちょうどわたしの胸元で、エンジ色のスカーフが風に遊ばれてふわりと揺れました。
半分開かれたままのドアと、正方形の小さな玄関、夏の匂いのする風。
わたしたちは何も言わないまま、しばらく向かい合っていました。
こんなふうにあなたを正面から見上げるのは、とても久しぶりのことのように思えました。わたしはあなたの名前を口にしようとして、寸でのところで飲みこみました。舌の上でその響きを転がしたときの感覚に、意識がふと別の時間、別の場所へ持って行かれそうになったからです。それが一体いつで、どこなのかは、わかりませんでした。それでも、その感覚はわたしに、懐かしい、という感情を呼び起こさせました。
なつかしい。
懐かしい、という言葉は、どのような意味を持つものだったのでしょうか。わたしは、決して蓋を開けてはいけないパンドラの箱を目の前にしたような、ある種の畏怖と気まずさのようなものを感じていました。
わたしは高い熱があるときのような、ふわふわと足元が定まらない心地で、あなたに問いかけました。あなたの姿が、ふいに揺らめきました。
「どうしてあなたが、ここに」
「約束だからね」
やくそく。
そう発音したときの、些細なイントネーションの癖。そこには間違いなく、あなたの面影がありました。あなたは疑いようもないくらいに、あなた自身でした。
「わたしは、きみとの約束を守りに来たんだよ」
幻聴でしょうか。
そのときどこからか、さらさらと砂がこぼれ落ちる音が、聞こえてきたような気がしたのです。
わたしは眩暈を覚えました。
靄が立ち込めてゆくように目の前が次第にぼやけ、あなた越しに見えていた階段の手すりも、小さな靴箱の上に置かれた封書の束も、そしてあなたの姿も、輪郭が頼りないものになってゆきました。自分が置かれている時間、そして空間が歪み、わたしはいまどこにいるのか、それさえも曖昧になってゆきます。確かなものは、視界の隅で揺れるエンジ色と、頭の中に直接流れ込んでくるあの音だけでした。
さらさら、さらさら。
わたしは薄れてゆく意識の中で、耳に手を当てました。
さらさら、さらさら。
その音は微かに、けれどはっきりと、わたしの中に入り込んできます。
砂の音。
時計の音。
金色の音。
あなたの音。
――嗚呼、動き出してしまう。
*
その寂れた時計店は、駅前の、細長い三階建てのビルの二階にありました。
古いビルにはエレベーターなど当然ありませんでしたので、お店に行くには薄暗い階段を上らなくてはなりませんでした。コンクリートの壁に挟まれた狭くて急な階段は、夏でもひんやりと寒々しい気配を漂わせていました。
小ぢんまりとした店内は、その壁のほとんどが掛け時計で埋め尽くされ、背の低いガラスケースの中には腕時計や懐中時計の類が規則正しく整列させられていました。一番奥まった場所に設置されていた、一瞥しただけではそこにあるのかわからないような小さなカウンターの中が、あなたの定位置でした。
あなたはいつでも、そこにいました。たくさんの時計に埋もれるようにして。あなたを見ていると、いつかあなた自身も時計の一部になってしまうのではないか、皮膚という皮膚から時計の成分がゆっくりゆっくり染み込んで、少女が女性になりやがて老女になるように、時計に近づいていってしまうのではないか――そんな空想を遊ばせずにはいられませんでした。そのくらい、あなたと時計とは、同一であったのです。
「ここは、お客さんのいらないお店ですね」
あるとき、わたしはあなたにそう告げました。
それがいつであったのか、正確な時期はわかりません。ですが、そのとき店内はあなたとわたしのふたりきりであったこと、コンクリートに叩きつける雨音が微かに聞こえていたことは、はっきりと覚えています。そしてわたしが常連客とみなされるようになってから、さほど経っていなかったということも。
お客と店主の間に交わされる常套句以外で、あなたと会話らしい会話をしたのはこのときが最初だったのだということには、わたしは後になって気がつくことになります。
「何故、そう思うの」
カウンターの中で腕時計を磨いていたあなたは、顔をあげて薄く笑いました。
「必要としていないように見えるからです」
「誰が、何を」
「あなたと、それから時計が、それ以外のすべてを」
ひとりきりの店主と、いくつもの異なった時を刻む時計たち。それで既に完結したひとつの空間であり、そこに第三者は必要としていないかのように、わたしの目には映っていたのです。ある瞬間で固められてしまったような、絶妙なバランスの保たれた空間。
「ところで、きみはお客なのかな」
「一応は、そのつもりです」
「きみが言ったことが正しいとすれば、きみもここにはいらないことになるね」
「そうだと思います」
「だけど、きみはここへ来る。それもとても頻繁に」
「はい」
「それは何故」
あなたは双の瞳に、悪戯っぽい子どものような色を浮かべました。
時計店に時々姿を現すお客の中に、わたしのような中学生はほかにひとりもいませんでした。わたしは余分なお小遣いを与えられていたわけではありませんでしたので、時計を購入したこともなく、ただ飽きるまで眺めるだけでした。そのようなお客は、たとえあなたの時計店とは違いお客を必要としているお店であったとしても、いらないと感じる余計な存在であるという自覚はじゅうぶんにありました。
それでも、わたしがそのお店を訪れていた理由。無粋であると知りながらも、完結している空間に割り込もうとしていた理由。それは、たくさんの時計と時間の中に、もしかしたらわたしの「時間」が紛れ込んでいるのではないかと期待を抱いていたためでした。
もちろん、それが単なるわたしの夢想、妄想にすぎないのだということは理解していました。それでも、そう思わずにはいられなかったのです。正式な店名すらおぼろげにしか記憶していなかったのにも関わらず、あなたの時計店はわたしにとって、自分というものを保っておくための鎖のような役割をはたしていたのです。
「わたしは、このお店にとってお邪魔でしょうか」
「ここは時計店、そしてわたしはここの店主。お客を邪魔者扱いする理由はないよ」
「これからも、ここへ来て良いですか」
「来てはいけないと言ったら、きみは来ないのかな」
「いいえ」
「それなら、すきなようにすれば良い」
正確に時を刻む時計。
狂ってしまった時計。
一時的に止められた時計。
そして、永久に動き出すことのない時計。
仮に人間を時計に例えるとしたら、あの子は動かない時計でした。
わたしには、ひとつ違いの妹がいました。
わたし自身、お世辞にも発育が良いとは言いがたい子どもでしたが、妹はわたしに輪をかけて小柄で幼い容姿をしていました。実際よりも、ふたつみっつ下に年齢を誤魔化したとしても、誰も違和感を覚えなかったのではないか、むしろそちらの方がしっくりきたのではないかと思います。幼少期から身体が弱く、体調を崩しがちであったことも関係していたのかもしれません。
長時間太陽の光にさらされたことのないひとに特有の雪のように白い肌を、妹は持っていました。そのすべらかでひんやりとした顔に、いつも夢を見ているような色を浮かべて、ベッドに腰掛けたまま、ここではないどこかを見つめているのが常でした。
「わたしね、さっき時計うさぎに会ったのよ。追いかけたのだけれど、あとすこしのところで逃げられちゃった。ねえ知っている? うさぎはパイにすると美味しいのですって。残念だわ、食べてみたかったのに」
「今日はね、お茶会に誘われたの。でも断っちゃった。だって、それはそれはおかしなお茶会なのですもの。だって、ねえ、信じられる? 食べようとするとクッキーが悲鳴を上げて逃げ回るというのよ。おかしいでしょう」
「ぜったいに内緒にしてくれる? 実はわたし、ついに不思議の国の入り口を見つけてしまったの。ねえ、ぜったいに内緒だからね。ぜったいよ」
妹は、妹だけの不思議の国に生きる少女でした。
中学校にあがって少ししたころから、妹は身体の弱さとはべつの理由で学校へ行かなくなりました。そのころからです。もともとの空想好きに拍車がかかり、自らを「アリス」と名乗って、それにふさわしい言動をするようになったのは。
妹にとって自分自身は不思議の国の住人であり、決して、暗く狭いお部屋に閉じこもっている病弱な中学生の女の子などではありませんでした。
「見て、見て。このドレス、素敵でしょう? 空と同じ、澄み切った水色よ。それに、たっぷりとした贅沢なフリル。袖はもちろん、パフスリーブなの!」
妹が身に着けていたのは、プリンセスに変身できるという謳い文句のついた子ども向けのおもちゃドレスでした。それは安っぽいサテンの生地でできた、絵本に出て来るアリスの服を模した代物で、お世辞にも素敵とは言いがたいものでしたが、妹はそれをたいへん気に入っていたようで、自慢そうに見せるのでした。妹がくるくると身体を回転させるたび、しゃらしゃらと衣擦れの音をたてながらドレスも回りました。
「あなたはドレスを着ないのね、ベッキー。いつもそんなに地味なお洋服を着ていて、つまらなくはないの? わたしのを貸してあげましょうか?」
妹にとってのわたしは姉ではなく、ともに狂ったお茶会に興じる友人であったようです。アリスと同様に、不思議の国に迷い込んでしまった永遠の少女。
おねえちゃんと呼ぶ代わりに、妹はわたしを「ダイアナ」「ベッキー」など、彼女が好んでいた無垢で美しい少女たちの物語に登場する、主人公の友人の愛称で呼びました。わたしが彼女たちのような少女に特有の形容しがたいきらめきを持ちあわせているかどうかなどということは、妹にとってさほど問題ではなかったようです。
だって、ごっこ遊びのようなものだったのですから。
子どものごっこ遊びの設定に、正確なディテールや辻褄合わせなどを求めたら、途端に白けてしまうでしょう。
わたしは毎日学校から帰宅すると、制服を着替える間もなく、妹に乞われるまま、ごっこ遊びに興じました。わたしが姿を見せると、妹はたいていとびきり嬉しそうな笑顔を浮かべ、
「朝からずっと、ずうっと待っていたのよ。これ以上待ったら首が伸びすぎて、ろくろ首になってしまうかと思うくらい」
と、悪戯っぽく頬を膨らましてみせるのでした。
「ねえ、ダイアナ。今日は何をして遊びましょうか。おばけの森を探検するの、楽しそうじゃない? ……でもだめね。今日はあいにく雨だもの」
学校へ行くことも外へ出ることもしなくなった妹は、そのうち最低限の用事以外で自室から出ることすらもなくなりました。同時に、わたし以外をお部屋に招き入れることも。父や母が入ろうとするものなら、ものすごい剣幕で叫び声を上げました。夢の国の話をするときとは、別人のような金切り声で。
「出て行って! 大人は嫌いよ!」
「あなた誰なの! ここはわたしのお城よ、勝手に入らないでちょうだい!」
「ベッキー、助けて! 追い出して、はやく!」
妹から拒絶された両親は、わたしと顔を合わせるたびに、決まって寂しそうな色をその目に浮かべていました。笑っていても、怒っていても、同じ表情のように見えました。両親はわたしに、ことあるごとに妹の様子を尋ねました。わたしは妹と両親の間を取り持つ存在に、いつからかなっていました。
あなただけが、あの子の支えなの。
あの子を見捨てないで。
あの子のために、お願い。
はっきりとそう言われたのは、わたしが中学校を卒業するすこし前のことだったでしょうか。
両親は、狭いお部屋だけに生きている妹がすこしでも楽しく過ごせるように、と思ったのでしょう。妹が求めるままに、様々な物を買い与えました。その結果、妹のちいさなお部屋は可愛らしいものであふれていました。ロマンティックな音楽を奏でるオルゴール、メリーゴーランドのオブジェがくるくる回る置時計、アリスと時計うさぎを描いた壁掛けのポスター、おもちゃの宝石が詰まったプラスチックの宝石箱。
妹の世界は、そうしてゆっくりと形をなしてゆきました。妹にとって、心地よいものだけで構成された空間は、夢の世界と呼ばずに、何と呼べましょうか。
*
わたしは家の中にあなたを招き入れ、向かい合わせにテーブルにつきました。
ちいさな丸テーブルに、わたしは二客のティーカップを置きます。テーブルの上に薄く積もっていた白いものが、ふわりと宙に舞いました。
こんな風に、あなたと向かい合ってテーブルにつくようなことは初めてだとういうことに、ふと思い至りました。カウンター越しに向かい合うことは、何度もあったのに、です。
薔薇の描かれたティーカップを、あなたは両手で包むようにして持ち上げました。湯気のたっていない、カップの中の透明な液体を見つめているあなたを、わたしは知らないものを見るような気持ちで眺めていました。カップの中に、いったい何を見ているのでしょう。それはあなた自身でしょうか。それとも。
あなたはしばらくするとティーカップを置いて、言いました。
「かわらないのだね、きみは」
わたしはそれに、首をかしげることで応じました。
「ところで、何でしょうか。約束というのは」
「ああ、そうだった」
するとあなたはおもむろに、シャツのボタンを上から三番目まで外しました。首の後ろに手をまわし鎖の留め具を外すと、シャツの中からそれをゆっくりと抜き出します。それは蛍光灯のぼんやりとした照明を受け、わたしとあなたの間で鈍く光りました。
「さあ、約束だよ」
あなたは金色をしたそれを、わたしの両手のひらの上にそっと落としました。わたしはそれを、古い友人に再会したときのような、懐かしさの中に一滴の戸惑いが混ざったような気分で見つめました。
さらさらと砂がこぼれ落ちる音が、耳の奥に聞こえてきます。
今度は幻聴ではないようでした。
*
あなたの時間の秘密を知ったのは、わたしが十七回目の誕生日を迎えてからさほど日を置かない、ある雪の日のことでした。
あなたはいつものようにウールのジャケットを身に着けて、時計の中を揺蕩っていました。わたしの他にお客はなく、店内には音もなく降り続ける雪のようにしんと静謐な空気が満ちていました。
時間に色と形があることを知っているか、とあなたはわたしに尋ねました。
いいえ。
首を横に振ったわたしに、あなたは「あなたの時間」を見せてくれたのです。
それは、金色の鎖につながれた砂時計でした。
たまごがふたつ縦につながったような、つるりとした形の砂時計。その中では、細かい金色の粒子がさらさらと音をたてながら、淡い光を放っていました。よく見ると、小さな粒のひとつひとつは星の形をしていました。
わたしは思わず目を細めました。直視し続けるには、それはわたしにとって少々眩しすぎたのです。
「きれいですね。星砂ですか」
「ああ、そうだよ。これは死体なんだ」
「死体……」
「そう、有孔虫という原生生物の死体」
あなたはカウンターの奥から一冊の厚い本を取り出して、あるページを開いてみせました。そこには色々な様子の、不気味なアメーバの写真が載っていました。こんな意味のわからない生物とあんなにきれいな星砂の間に関係性が認められるなどということは、にわかに信じがたいことでしたが、美しく見える星砂は実はちっぽけな生物のなれの果てでしかないのだと、あなたは言うのです。
「有孔虫が死ぬと、殻だけがあとに残るんだ。星に似た形をしたその殻が、一般に星砂と呼ばれているんだよ」
輝きを帯びながら、流れ落ち続ける星の砂。窮屈な硝子瓶の中に閉じ込められたたくさんの死体。尽きたものが刻む生者の時間。
「皮肉ですね」
「きみにとっては、そうなのかな」
「だって、そうではありませんか。死んだものが生きているものの時間になるのだなんて。それではまるで、死んだものが生きているもののために存在しているかのようではありませんか。それは、死んだものに対する侮辱ではないのですか。死んだものよりも、生きているものの方に優位性を認めることになってしまうのではないのですか」
「生きているものは、死んだものに生かされているんだよ。誰でもね」
あなたはふっと遠い目をして、薄く微笑みました。一体どこを見ているのか、あなたの視線の先に何があったのか。それはわたしの知るところではありませんでした。
あなたは砂時計を目の高さに持ち上げると、それに話しかけるかのように呟きました。その声音は星砂の輝きのようにやわらかく、はちみつのような甘さを感じさせました。まるで、最愛のひとに囁きかけるように。
「これが落ち切ったときは、わたしが星砂になる番なのだろうね」
妹とのごっこ遊びは、相変わらず続いていました。
「ごきげんよう、イザベル」
少女と形容される年齢からの卒業が間近に迫っていることに気づきつつあったわたしを、妹は飽きもせず少女の名で呼び続けていました。少女期に終わりが来ることになど、まったく思い至らないといった様子で。
あるとき、妹は言いました。
「ねえ、あなたは大人になんてなったりしないでしょう」
わたしはそれに、何と答えたのだったでしょうか。
妹は幼いころのままの白くほっそりとした手でわたしの手をとると、目を閉じました。この世界のすべてから目を背けるかのように。――わたしからも。
「少女はいつか大人にならなければならないなんて、そんなのは大人がつくった嘘よ。大人は嘘つきで汚くて醜くいもの。ねえ、誰が何と言ったとしても、わたしたちだけは、ずうっと少女のままでいましょうね。一日中汗を流して働いたり、たいして可愛くもない子どもにミルクをあげたり、しわしわのおばあさんになったりなんて、絶対にしないの」
がらんとした部屋で、わたしたちは静かに寄り添っていました。
妹はわたしの手に自由を与えると、わたしの胸元に手を伸ばしスカーフに触れました。
「わたし、これすきよ」
結び目を解かれたエンジ色のそれは、気まぐれにもてあそぶ妹の手をやわらかく包みました。
「あなたがいつも来ている、その上下紺色のお洋服は、可愛くないからきらい。でも、このスカーフはすき。落ちた椿の花の色、寝不足うさぎの瞳の色」
妹が纏っているエプロンドレスは、目が覚めるように青く、絵具でべた塗りをして描いた空みたいでした。ちいさなお城に妹が閉じこもるようになったばかりの頃は真新しかった衣装も、この頃にはところどころ毛羽や毛玉が目立ち、ふとした瞬間に陰りの表情を覗かせるようになっていました。一方で、もともと地味な色をしていたわたしのスカーフは、すこしくらい汚れたり古くなったりしてもさほど目立ちません。そこが、妹のお気に召したのでしょう。「かわらないもの」に対して、妹は異常な執着をみせていました。ぬいぐるみ、電池の切れた時計、食品サンプル、写真、絵画、絵本。反対に「かわりゆくもの」に対しては、ほとんど憎悪に近いような感情を向けていたように記憶しています。生の果物、窓の外の風景、当時飼っていたチワワ、髪の毛。そして、わたし。
「ねえ、あなたは大人になんてなったりしないでしょう」
意味を持ちえない言葉遊びのように、戯れに囁く冗談のように、妹はその言葉をたびたび口にしました。
わたしはそのたびに頷くのです、微笑んで。
妹は、永遠に子どものままで居続けようとしていました。
わたしだけ未来に生きることなんて、ですから、できなかったのです。
妹には、わたしだけでした。
わたしだけしか、いなかったのです。
時計に囲まれてあなたの姿を眺めるとき、わたしの頭の中には、砂がこぼれ落ちるときのさらさらという音が流れていました。
それは風のない月夜を連想させるような、静謐で穏やかな調べでした。わたしはその音が聴きたくて、あなたのお店に足を運んでいたのかもしれません。
あなたのお店は相変わらず、あなたと時計たちで完結した、お客のいらないお店でした。わたしはその中でも、とりわけ必要のないお客であったと思います。時計を新調するのでも修理をお願いするのでもない、ただふらりと訪れては、ひとことふたこと言葉を交わし、飽きるまで時計を眺めるだけのお客。あなたはすきなようにすればいいと言ってくれましたが、それでもわたしは自分があなたにとって迷惑なお客なのではないかと、遠慮でも謙遜でもなく思っていたのです。
ですから、あなたがあなたの秘密をわたしに見せてくれたのも、単なる暇つぶしに似た気まぐれで、特別な意味など存在しないのだと思っていました。けれど、自分があなたにとって特別な存在なのかもしれない、などという傲慢な考えが一度も浮かばなかったと言ったらそれは嘘になります。
わたしはある種賭けのような気持ちで、あるとき、あなたにひとつ「お願い」をしました。
それは、あの金色を閉じ込めた砂時計のことでした。
「あの砂時計を、わたしにください」
あなたは穏やかに、けれどきっぱりと首を横に振りました。
「あれは、わたしの時間だからね。例えきみが持ったとしても、ただの砂時計以上のものにはならない」
「それでも良いと言ったら、くれますか」
「そうだね……この砂がすべて落ち切った後でも良いのなら」
それが何を意味しているのか、わからなかったわけではありません。
「それでも良いです」
「いつのことになるか、わからないよ」
「良いです。いつか――いつかで良いのです」
そのときがきたら、あなたはあなた自身が星砂になるのだと言っていました。
わたしが砂時計を受け取る日、その中を流れる金色は、いったい「誰」なのでしょうか。そのとき、あなたは、わたしは、いまのままの「あなた」と「わたし」でしょうか。カウンターから出てこない時計店の店主と、迷惑なお客。わたしたちは、「そのとき」がきても、そういう関係であり続けているでしょうか。
わたしはあなたに、もう一度あなたの秘密を見せてほしいと頼みました。わたしは、知りたかったのです。あなたが金色の秘密に向ける眼差しのあたたかさの理由を、その甘い微笑の理由を。見たところで、わたしにわかるはずもなかったのですが、それでも、知りたかったのです。
あなたが大切そうに抱きしめている、その砂時計の中で光る砂。
それはいったい「誰」だったのですか。
*
わたしは手の中で光を宿している砂時計と、あなたとを交互に見比べました。それから砂時計をあなたに返そうと手を伸ばしましたが、あなたはそれをやんわりと押し返します。
「遠慮する必要はないよ、約束だからね」
「いいえ、いいえ」
わたしは首を横に振りました。その動作しか覚えこまされていない、出来損ないのカラクリ人形のように。いいえ、いいえ、と、わたしは壊れたレコードのように繰り返します。
「あなたと結んだ約束は、違います」
「違わないよ」
「わたしは、いつか、と言ったのです」
「いまが、そのいつか、なんだよ」
「いいえ、そんなはずはありません。だって、あなたは」
あなたは?
わたしの頭の中に、突如として疑問符が浮かびます。
あなたの頭は、そんなにも高い位置にあったでしょうか。
あなたの姿は、そんなにも澄んだ水のようだったでしょうか。
あなたの存在は、そんなにも透明なものだったでしょうか。
どうしてあなたは、一度もティーカップに口をつけないのでしょうか。
どうしてあなたは、玄関で靴を脱がなかったのでしょうか。
どうしてあなたは、汗をかいていないのでしょうか。
どうして、あなたは。
「ねえ、きみは――」
あなたが何かを言いかけて、わたしは反射的に両手で耳をふさぎました。
ききたくない。
きいてはだめ。
きかせないで。
それでもあなたの声は、わたしの中に直接響いてくるかのように、届きました。
「きみはいつまで、制服を着続けるのかな」
風もないのに、わたしの胸元でスカーフがはためきました。すっかり褪せてしまったエンジ色が、そこにはありました。
――嗚呼、動き出してしまう。
*
わたしがごっこあそびから抜け出したのは、高校を卒業してすぐのことでした。大学進学を口実に、妹のいる家を出たのです。
そうです、わたしは逃げ出したのです。
妹から離れさえすれば、わたしの時間が、自分だけの時間がきちんと動き出してくれるのではないかと思いついたのです。あなたがいつもまとっていた、眩しいくらいの金色の時間を、手に入れることができるのではないか、と。
わたしは、あなたが羨ましかった。
確固とした自分の時間を持ち、それを愛し、慈しみながら生きてゆく。抗うことも、止めようと足掻くこともせずに、ただ流されるままに時を過ごす。わたしもあなたのようになりたいと、いつしか思うようになりました。そしていつか、自分だけの金色の時間を抱きしめられるようになりたいと。妹が生きている時間から外へ出れば、それは少しずつにでも叶うことなのではないかと思っていたのです。
けれど、それは愚かな勘違いでした。
離れれば離れるほどに、わたしは妹の幻影にがんじがらめにされてゆきました。いつでも、何をしていても、あの子はどこかでわたしを見張っていました。すこしだけ悲しそうな、穏やかに凪いだ目で。
――ねえ、あなたは大人になんてなったりしないでしょう。
――あなただけ勝手に大人になるつもりなの。
常に耳元で、そう囁かれているような気がしていました。
楽しいことも、嬉しいことも、辛いことも、悲しいことも、わかりませんでした。何も感じてはいけないと、無意識のうちに思い込んでいたのかもしれませんでした。
新しいことを取り入れないように、なにも変わることのないように、妹の知らない自分にならないように、暗示をかけていたのかもしれません。ほかでもない、自分自身に、です。
いつか妹の時間が再び動きだしたとき、わたしはあなたと一緒の時間を生きるよ、と微笑んであげられるように。妹がひとりぼっちになることのないように。妹と生きる時間を同じくできるのはわたしだけだから――そんな自負とうっとおしさが混ざったような気持ちでいたのだと思います。
わたしは妹の時間に抗うことを止め、その証として制服を着続けました。全身墨をこぼしたような濃い闇色の、重たいセーラー服。胸元ではいつも、エンジ色が揺れていました。
わたしは大人にならないと決めました。永遠に、少女のままで生きてゆこうと。
けれど、妹はそうではなかったのです。
妹の時間が動きだしたことを知ったのは、家を出てからさほど経っていない頃だったと記憶しています。妹が停止した時間の呪縛からあっさり解放されたことを、両親は喜んでわたしに報告してきました。きっかけや理由もそのとき一緒に聞いたのかもしれませんが、何ひとつとして記憶に残っていません。わたしはその日のうちに、電話を解約しました。家からの手紙、急な訪問、大学への連絡。すべてに気づかないふりをして、ひとり家に閉じこもりました。
あるとき、見知らぬ人物がわたしのもとを訪ねてきました。妹の名前を名乗ったその女性は、わたしの知っている妹とは何から何まで違っていました。「おねえちゃん」と呼ばれたとき、わたしはひとが狂ってしまう感覚を、はじめて身をもって知ったように感じました。
あなたがわたしの妹ならわたしを「おねえちゃん」などと呼ぶはずがない、妹はわたしを「ダイアナ」や「ベッキー」と呼ぶはずだ――そのようなことを無茶苦茶にまくしたてたような気がします。それ以後、かつて妹だった女性がわたしに会いに来ることはありませんでした。家からの手紙も、そのうちにぱったりと途絶えました。
それからもわたしは、それまでと変わらず気づかないふりを続けました。
その女性が妹だったということにも。
不思議の国はもうなくなってしまったのだということにも。
妹はいまも空色のエプロンドレスを着て、ちいさなお城に閉じこもっているのだと、自分を騙し続けました。妹は少女のままであり続けているのだと、言い聞かせ続けました。
だって、いまさら。
どうしろと言うのでしょう。
どうすべきだったのでしょう。
「妹のため」という言い訳を取り上げられたら、わたしにはなにも残らなくなってしまうのです。
妹が、わたしのすべてでした。
本当に時間が止まってしまっていたのは、妹ではありませんでした。
わたしの方だったのです。
*
首筋にひんやりとしたものが当たって、あなたがわたしの首にかかったのだということを知りました。わたしは顔を俯かせ、膝の上でかたく組んだ両手を眺めていました。古ぼけた紺色の袖から除く、痩せて骨ばった手。わたしはゆっくり両手をほどくと、そのまま自分の頬にそっと触れました。少女の頃のような、すべらかな弾力はもうそこにはありません。
わたしがダイアナやベッキーだった頃。
あの頃から、いったいどれほどの月日が経過したのでしょうか。
わたしはいま、いくつなのでしょうか。
「あなたは、星砂になることができたのですね」
わたしは、胸元で鈍い光を放っているあなたに話しかけました。指先で触れると、ひんやりとした無機物の冷たさを伝えてきました。わたしの指も、おそらく同じくらいに冷えているのでしょう。
「あなたは、あのお店にいたときから、金色でしたよ」
羨ましいくらいに、そして、妬ましいくらいに。
あなたが金色なのは、金色の秘密を胸に抱いているからなのだと、わたしは勝手に考えて自分を納得させていました。ですから自分も金色の秘密を持てば、あなたからその秘密を受け取れば、金色になることができるのではないかと。自ら金色になろうとする試みに失敗したとしても、時間の輝きにあふれたあなたなら、わたしの錆びついた時間を色彩豊かなものに生まれ変わらせてくれるのではないかと。そんな他力本願な期待を抱いていたのです。
けれど、そんなことはありませんでした。
かつて金色の秘密を持っていたあなたは、金色でした。
それは金色の秘密のおかげではなかったのですね。あなた自身が金色だったから、あなたの時間も美しく輝いていたのですね。
そんなことにすら、いまのいままで気づくことのできなかったわたしには、ですから金色になる資格など、そもそもあるはずがなかったのです。
わたしは鎖を首から外し、あなたを力いっぱい床に投げつけました。硝子は割れ、そこらじゅうに細かな砂が散らばりました。ほの暗い部屋に撒かれた小さな星粒は、ひとつひとつが輝きを帯びていて、まるで一瞬にしてそこに星空が生まれたみたいでした。
皮肉な輝きでした。
あなたの前も、そしてその前も――金色でつながってきた時間の鎖。美しいひとたちのつながり。それを、わたしは断ち切ってしまいました。望み通り金色の秘密を手にすることができたはずのわたしには、けれど、それを抱きしめることが許されていないのです。わたしの元にあれば、ばらばらにされてもなお輝き続けている星砂たちは、ゆっくりと腐敗してゆくように色を失ってしまうでしょう。わたしはとても、そのような残酷で哀しい時の流れに耐えることはできません。
ですから、こうするしかなかったのです。わたしには、こうすることしかできなかったのです。どうしてあなたはわたしに、あなた自身を託したのでしょう。どうして律儀にも、約束を守ってくれたのでしょう。それを知るすべはもうありません。あなたはわたしが、叩き割ってしまったのですから。自ら、壊してしまったのですから。
生きるものは死んだものに生かされているのだと、かつてあなたは言っていましたね。では、既に生きているのか死んでいるのかもわからないわたしは、何に生かされているのでしょうか。もしくは、何を生かしているのでしょうか。わたしは。
わたしは星砂の散った床に座り込みました。
時間という名のきらめきはどこまでもまばゆく、わたしの瞳に畏怖の象徴として映りました。わたしはとうの昔に錆びついてしまった鎖に全身を拘束されたまま、永遠に動き出さない時間の中を、回り続けます。生きているのか死んでいるのかわからないまま、いまがいつであるのかもわからないまま、季節の移ろいにさえ気づけないまま。
ぐるぐる、ぐるぐる、回り続けます。
わたしに終わりが訪れるその日まで。
スカーフが風にはためかなくなるその瞬間まで。
〈了〉