すべてが終わった後、「これからS4決定戦お疲れさま会をしよう」という話で盛り上がる学園生たちの輪から外れて、わたしはひとり足早に寮へと向かいました。
――はやく、もっとはやく。
誰もいない寮の廊下に、自分の足音だけがやけに大きく響いていました。自室へとたどり着いたわたしは制服を着替えるのももどかしく、鞄だけを置くと、そのまま机に向かいました。
――もっと、もっと。
わたしは自分の中に生まれた、どうしようもなく大きな熱をすべてぶつけるように、スケッチブックに鉛筆を走らせます。
――次のステージに。もっと高みに。
***
ノックの音で手を止めたときには、窓の外にはいつのまにか夜が訪れていました。机のスタンドライトだけが灯された部屋は薄暗く、わたしは気づかないうちに暗がりに慣れてしまっていた目をこすりながら、ノックの主に返事をしました。
「どうぞ」
控えめな速度でドアが開き、その隙間からぴょこっと顔を出したのは、幼馴染の二階堂ゆず。S4の制服に身を包んだゆずは、笑顔ではあるものの、どことなくいつもより元気がないように見えました。
「リリエンヌ! 『S4決定戦お疲れさま会』のお菓子持ってきたぞ。サンドイッチとおにぎりもあるよ。一緒に食べよ!」
「ありがとうございます、ゆず。ですが、あまり食欲がないのです」
「だめだめーっ! ゆず知ってるんだぞ、リリエンヌ今日、ステージ前に飲んでたウィンナーコーヒー以外、なんにも食べてないでしょ! 倒れちゃうよ!」
「ええ、確かにゆずの言う通りです。ですがいまは、食事よりも優先しなければならないことがあるのです」
「衣装のデザイン、してたの?」
ゆずは跳ねるような足取りで部屋に入ると、わたしの机の上に散らばっているデザイン画を覗き込みました。目をきらきらと輝かせて「すごい!」「これリリエンヌに絶対に似合うぞ!」と感想を伝えてくれます。
わたしはそれを嬉しく受け止めながらも、ゆっくりと首を左右に振りました。
「まだまだ、です。一流のデザイナー、そしてアイドルになるためには、もっと高みを目指さなくてはなりません。まだまだ、足りないのです。技術も、知識も、経験も。わたしのこの胸の中に熱くたぎっている服に対する情熱を受け止めるだけの実力を、わたしは手にしたいのです――否、手にしなければならないのです」
「うん、わかった。リリエンヌが頑張り屋さんなのは、よーくわかったぞ。でもまずは、ごはん! えいっ!」
ゆずはわたしの腕を引くと、強引にベッドに座らせました。それから自分も隣に座ると、バスケットいっぱいに持ってきたお菓子や軽食の中から、包みをひとつ取り出します。
「夜空たん特製、炊き込みごはんのおにぎりだぞ! よくわかんないけど、栄養たっぷりなんだって。はい、リリエンヌ。あーん」
わたしは目の前に差し出されたおにぎりを、餌をもらう雛のように、ゆずの手から直接食べました。風味の良い炊き込みごはんを口にしたのをきっかけに、わたしの身体は空腹を思い出したようで、胃のあたりがちいさく音をたてました。
「おいしいです」
「でしょ? ほらほら、もっと食べて!」
ゆっくりと時間をかけて、手のひらサイズのちいさなおにぎりを食べきります。ゆずは指に残ったごはん粒を舐め取りながら「ぜんぶ食べられたね! よかった!」と笑いました。
わたしは幼いころから食が細い上に、食事自体にあまり関心がなく、読書やレッスンなどなにかに没頭していたりすると、ついつい食べることを忘れてしまいます。その状態が長く続くと胃が縮こまってしまうのか、余計に食事が億劫になってしまうのですが、何故か昔からゆずに食べさせてもらうと、すんなり食べ物を受け入れることができるのです。本当に親鳥から餌をもらう雛のようだと、自分でもすこし可笑しく思います。
「次はなに食べる? からあげとか、たまごサンドとか、マドレーヌもあるぞ!」
わたしはゆずの手からすこしずつ色々なものを食べさせてもらい、お腹が満たされると、ゆずと一緒にあたたかいハーブティを飲みました。本当はウィンナーコーヒーを持ってこようとしてくれたそうなのですが、夜であることを考慮して、ノンカフェインのものを選んだのだと言います。
「どうもありがとうございました、ゆず。そろそろわたしはデザインの続きをします」
「リリエンヌ、今日はもう休んだ方がいいぞ」
「いけません。わたしには、やらなければならないことが山ほどあるのです。いまは休む暇など――」
突然、ゆずがわたしの両腕を掴みました。そして胸のあたりに、ゆずの頭が押し付けられます。ゆずは下を向いていて、わたしからは表情は見えません。
「ゆず?」
「リリエンヌ、無理しないで」
それはいつもの明るく快活なゆずとは違う、落ち着いた大人のような声音でした。
「リリエンヌがすごく頑張り屋さんなのは、知ってるよ。でも、リリエンヌが無理してると、ゆずも、つらくなっちゃうんだぞ……」
「わたしは、無理などしていません。わたしは早く、次のステージへ進みたいのです。わたしはここで立ち止まるつもりはありません。ですからわたしは、そのために――」
「悔しいって言っていいんだぞ!」
顔を上げたゆずは――泣いていました。
ぽろぽろと、大粒の涙をこぼして。
「ローラちゃんのステージが終わった後、リリエンヌは笑ってた。ゆめちゃんの後も、ひめちゃんの後も。ゆずは、ライバルにちゃんとおめでとうって言えるリリエンヌのこと、すごいと思う。でも、でも、本当はリリエンヌ、悔しいと思ってるんじゃないの? ゆずは悔しいぞ! リリエンヌがめちゃくちゃ頑張ってたの知ってるから、リリエンヌが負けちゃって、すっごく悔しいぞ!」
愛しい幼馴染は、ちいさな子どものように、涙もふかずに泣いていました。ときどきしゃくりあげながら、鼻をすすりながら。
「気持ちを切り替えて、次のステージに進もうとしてるリリエンヌは、偉いと思う。ゆずは、そういう前向きで頑張り屋さんなリリエンヌ、だいすきだぞ。でも、悔しいって気持ちは、なかったことにしないで。なかったことにしちゃったら、せっかく生まれた『悔しい』って気持ちが、かわいそうだぞ……」
「ゆず、わたしは……」
――わたしは。
「わたしは、S4になりたかった……! ゆずと一緒に、S4に」
当然です。
悔しくないはずが、なかったのです。
冬の氷が春の日差しで溶かされたように、わたしの瞳から、一筋の涙が頬に伝いました。
わたしは自分が持っているものすべてを、魂と呼べるものを、今回のステージで出し切ることができたと思っています。ですが、後輩の虹野ゆめ、桜庭ローラ、そして、他の追随を許さない現役トップアイドルの白鳥ひめ先輩――彼女たちのステージには、届かなかった。彼女たちのステージは素晴らしく、アイドルと歌が持つ強い力と可能性を、改めて感じさせられました。そしてわたしももっと精進してゆかなくてはならないと、思わせられたのです。ですから今回のS4決定戦は、勝ち負けよりも大切なものを、わたしにもたらしてくれたと思っています。
ですが。
頭ではそのように理解していても。
それでも心は、やはり。
「わたしは悔しいです。ゆず、わたしは、S4になれなかったことが悔しいです。あなたとの約束を果たせなかったことが、悔しいです……!」
言葉は飾る余裕もないまま、涙と共に、とめどなくあふれます。
悔しい、悔しい、悔しい。
アイドルは勝ち負けではない、S4になることだけがすべてではない、トップアイドルへの道を断たれたわけではない――わかっています。ですが結局はどのような理屈も、悔しいという感情を根本から消し去ることはできませんでした。消し去ることができなくてもせめて見ないようにして、無理矢理次に進もうとしてしまっていたわたしに、ゆずは言いました。悔しいという自分の気持ちと、きちんと向き合うようにと。
「ゆずの中では、歌組とか舞組とかそういうの関係なく、リリエンヌがダントツでトップだぞ! ゆずにとっては、いままでもこれからも、リリエンヌが世界でいちばんだからね! うわーん、リリエンヌー!」
ゆずに飛びつかれた衝撃で体勢を崩し、わたしとゆずはもつれあったまま、ベッドに倒れこみました。そのまま幼いころのように、泣きつかれて眠ってしまうまで、ふたりして一生分の涙を流しきってしまうかのように泣き続けました。
眠りに落ちる前、ゆずは泣きすぎたためにカラカラになってしまった声で、ささやくように言いました。
「ゆずはこれからリリエンヌと一緒にしたいこと、たくさんあるぞ。また一緒にステージに立ちたいし、リリエンヌがデザインした衣装も着てみたいし、それからそれから……」
ちいさな寝息をたてはじめた幼馴染のふわふわの髪をなでます。そしてわたしは、自分に言い聞かせるように呟きました。
「かのデザイナー、ココ・シャネルは言いました。『翼を持たずに生まれてきたのなら、翼を生やすためにどんな障害も乗り越えなさい』と。わたしは乗り越えてみせます。プレミアムレアドレスを――否、それを超える衣装を作るという夢を叶えるために。そしてその衣装を身にまとって、ゆずと一緒にステージに立つために。――そのための翼を手に入れるために」
ひめ先輩のステージの後、ゆずはわたしに、新しい夢をまた一緒に見ようと言ってくれました。
わたしにも、ゆずと一緒に叶えたい夢がたくさんあります。そのためにわたしは、ここからまた歩きはじめるのです。生まれたばかりの雛のように、つたない足取りだとしても、一歩一歩、確実に。
近い未来、大きな空へと、自分の翼で飛び立つために。